ひと/東洋紡テクノウールの社長に就任した小田昭夫氏
2004年11月19日 (金曜日)
国内での生産を強みに…
「ウールとのかかわりはほとんどありませんでした。だから今、ウールについて一生懸命勉強しています」と、笑って応えるのは先月、東洋紡テクノウールの社長に就任した小田昭夫氏。東洋紡の中でも、ずっと綿を主力にする紡織事業の製造現場に携わってきた。
現場が好きだ。三重工場(四日市市)にあるスルザーのグリッパー織機に「懐かしいから、もう一度触ってみたい」ともらす。小松島工場(徳島県小松島市)があった頃、グリッパー織機でいろいろ商品開発に取り組んできた。
「グリッパー織機は機械的にも優れているんだ」。シャツ地生産が全盛期だった頃、よく同機を使って試験反を生産した。
織機に深い見識があるのも、70年代前半に織機を一度バラバラにして、もう一度組み立て直し、一つひとつの部品やその性能を知っていったことがある。
もちろん、今の時代に織機をばらすという、そんな余裕はない。ましてや70年代の繊維産業は日本経済を支える主力産業の一つで生産に追われる毎日だ。
「その頃でも余裕はなかったはず」との記者の質問に、「ちょうどオイルショックの時で仕事がなかったんですよ」(笑)。時代的にも「運が良かった」。いろいろ経験させてくれた上司には今でも感謝している。
グリッパー織機を始め、レピア機など、研究開発のために「1~2台ずつそばに置いてもらった」。真っ黒になりながら織機をいじっていた頃を思い出す。
エアージェット(AJ)織機を日産と共同開発する機会にも恵まれた。75年から手がけ始め、78年に完成。庄川工場(富山県射水郡)に32台導入した。現在228台のAJ織機が同工場内にある。
テクノウールの社長になった今、「国内に生産現場があることを強みにしたい」と考える。国内生産では、安定的な高品質、多品種小ロット生産、短納期対応などメリットはたくさんある。しかし、稼働率とコストの相反関係や再加工率の改善など「ネック工程の山谷崩しはまだまだ不十分」と、すでに今後の取り組むべき課題を見いだす。
「あまりにも製造現場に片足を置き過ぎると、営業の部長さんに怒られるかも」と苦笑する。だが「現場があってこそのメーカーだから」との強い信念を持つ。
東洋紡テクノウールの社長に就任した小田昭夫氏
おだ あきお 71年に東洋紡入社。庄川工場長や小松島工場長、渕崎工場長、入善工場長など歴任し、03年には富山事業所長に。04年10月に東洋紡本体のテキスタイル生産技術・調達部長を兼任しながら東洋紡テクノウールの社長に就任。現在、55歳。