特集・こだわりの糸作り/今、“糸”が面白い

2003年08月27日 (水曜日)

 糸段階からこだわったモノ作り」。日本の繊維産業はかつて、今ほど真剣にそれを模索したことがあっただろうか。その成否は、日本の繊維産業全体の存亡さえ分けるかもしれない。ここでは、糸作りにこだわった人々の物語を紹介する。その物語が、製品に添える新たな価値になることを期待して。(敬称略)

結束紡で孤高の挑戦/短所よりも長所を重視

 無撚の短繊維束の回りに空気流で短繊維を絡めて糸を形作る、いわゆる結束紡績技術が世に知られるようになったのは80年代の前半だ。紡績会社の多くが、同糸を作るための小型紡機を導入し、商品化を進めた。しかし、ほとんどの会社は、試作の段階で商品化を見送った。当然ながら結束法にも、長所と短所がある。紡績会社のほとんどは、短所の方を重大視した。

 唯一の例外だったのが、第一紡績だ。結束紡法は近年まで、ポリエステル・綿混糸の生産には適するが、純綿糸の生産には向かないとされていた。第一紡績はあえて、結束紡機で純綿糸を生産することに挑んだ。紡機製造業者に頼んで、紡機を純綿糸製造に向くように改造してもらった。それでも、商品化は容易ではなかった。

 結束紡機の糸生産速度は、リング精紡機の10倍と非常に早い。すべての面でこれまでと異なる紡績技術が必要だった。試行錯誤を繰り返しながら、どうにか糸を作り出した。ところが、慣れ親しんだリング糸に比べると硬い。綿花を別種のものに替え、紡績条件も見直した。しかし、「持って生まれた特徴を完全に抑えることはできなかった」と、同社常務の山田良治は振り返る。

 それでも同社は、商品化をあきらめなかった。結束紡糸には、吸水速乾性が高いなどいくつかの長所もある。リング糸に比べると硬いという短所よりも、これらの長所がよりも重視される用途、さらには短所だと思われていたことが逆に長所に転じる用途を開拓しようとした。

 現在同社は、日本最大の結束紡糸製造能力を持つ。地道な用途開拓のたまものだ。ここにきて最新の結束紡機も続々と導入している。01年秋にその試験機を導入。昨年夏、日本で初めて本機を据えた。今年2月にもう一台追加し、本機2台体制を敷いた。

「もう引き受けない」/突き刺さる工場側の視線

 00年9月、富士紡は、吸水速乾性の高さなどが売り物のポリエステル85%・綿15%混糸「ドライ・リリース」の独占輸入権と日本における商標の独占使用権を、米国オプティマ社から得た。その翌年、アジア地域における独占製造権も取得した。富士紡は、資本関係のないタイの紡績会社でそれを生産しようとした。原料となるポリエステルも、タイで調達することにした。同社の依頼を受けて日本の合繊メーカーが、「ドライ・リリース」専用のポリエステル繊維を新規開発し、その生産技術を同合繊メーカーのタイの子会社(以下ではA社)へ移植することになった。

 01年7月。富士紡の紡織技術部技術課員、安川雅偉は、技術指導するためにタイの工場へ飛んだ。試紡が始まった。準備万端で臨んだつもりだったが、トラブルが頻発する。富士紡が要求する品質の糸を作るには、大方の想像を絶する時間と手間が必要だった。

 同年10月。どうにかこうにか、最初の受注分を出荷した。しかし、生産効率はまだ低かった。微妙な改良を施すと、それが新たなトラブルの原因になる。その繰り返しだった。「人手を増やしてでも、品質と納期を守ってください」。安川は妥協しなかった。工場側も労を惜しまなかった。安川の要求に応えようと、夜中まで働いた。しかし、生産性はなかなか向上しない。工場の幹部たちの表情が、日を重ねる度に険しくなる。「こんなに手間暇がかかるなら、もう引き受けられない」。ついに、そんな声が出た。

 ポリエステル繊維の供給を委ねているA社に、同繊維の改良を依頼した。改良版が工場に届いた。紡績工程も再度見直した。「これを最後の挑戦にしよう」。工場の幹部の多くはそう思った。改良繊維が紡績工程に投入された。トラブルは発生しなかった。生産性の問題がようやく解決した。

「顔は悪いが性格は…」/産み落とした糸への愛着

 98年のこと。東洋紡のテキスタイル商品開発センター部長の谷田光雄は、新種の結束紡機を用いて面白い糸の試作に成功した。耐摩耗性は抜群だった。毛羽も非常に少なかった。ドライ感もあるので、春夏の衣料素材に向くと思い、織物と編み地を試作して営業員に見せた。「顔が悪い」と言われた。確かに、生地表面に「モヤモヤ」とした感じがあった。「顔は悪いかもしれないけど、性格はいい」と谷田は主張した。営業員も“性格”、つまり物性の良さは認めた。しかし、売ろうとはしてくれなかった。

 営業員に提案したのは、純綿糸使いだった。性格の良さ、中でも抜群にいい抗ピリング性を前面に出せば、受け入れてくれるかもしれないと思い、ポリエステル・綿混とポリエステル100%の糸を試作し、スポーツ衣料に向くのではと提案した。それでも、営業員の心は動かなかった。

 谷田は当時、三重県伊勢市にあったテキスタイル開発センターに据えられた試験機で同糸の試作を重ねていた。同センターは99年末に閉鎖され、その機能は富山県射水郡の庄川工場内に新設されたテキスタイル商品開発センターへ移った。この時谷田は、新設の開発センターではなく、富山県砺波郡にある紡績工場(井波工場)へ同試験機を移して欲しいと希望した。開発センターへ移してしまうと、試験機のままで終わってしまうかもしれないと思ったからだ。同試験機は16錘しかない小型機だ。しかし生産性は、リング精紡機より格段に高い。24時間稼働させれば、商業生産にも使える。井波工場に置いておけば、そんな日がくるかもしれないと谷田は期待した。

 拠点を庄川工場内のテキスタイル商品開発センターに移した後も谷田は、機会を見つけては同糸の良さを提案し続けた。やがて、何人かの営業員が、その糸が生きる用途をイメージし始めた。谷田が最初の試作に成功してから5年が過ぎていた。

 営業員が興味を抱き始めた後の展開は早かった。「実際に販売するとなると、試験機だけでは心もとない」との声を受けて、本機の導入が決まった。今年7月、井波工場に72錘の本機が据えられた。“顔は悪いかもしれないが性格はいい”糸「セレス」が、間もなく市場に登場する。

「否定して、生かす」/空紡糸ではない空紡糸

 「空気精紡(空紡)機できれいな糸を作れないか」。ダイワボウの素材開発課長、菊池敏明は、当時同社の常務だった林三樹雄(現オーエム製作所専務)にそう指令された。紡織子会社、ダイワボウマテリアルズ(以下ではマテリアルズ)が擁する工場の一つ、和歌山工場は、日本最大の空紡糸生産能力を持つ。同工場の紡織課長、林禎弘にその指令を伝えた。ところが、なかなか朗報が返ってこない。

 マテリアルズの林は、指令の意図をつかみかねていた。空紡糸は元々、毛羽が少ない。その意味では、そのままでもきれいだといえる。菊池は、工場へ赴き、林と打ち合わせを重ねた。それでも開発の方向性がなかなか定まらない。

 今年5月の連休明け。菊池の上司である開発原材部副部長の荻田隆は、菊池とともに和歌山工場へ行った。もちろん、林との打ち合わせのためだ。この出張で開発の方向性を固めるつもりだった。3日間詰める予定を組んでいた。「空紡を否定しながらも、空紡を生かそう」。そう決めた。その場にいなかった人には、どういう意味か分からないだろうが、3人の技術者たちにはその言葉から、「クリアーで、ソフトで、毛羽が少なく、しかも嵩高な糸」をイメージしていた。

 開発の方向を定めかねながらも林は、様々な角度で糸を試作していた。その過程で蓄積したデータを生かして、3人で決めた方向に合致しそうな糸をその場で試紡してみた。しかし、「それではない」と荻田は思った。「細番手のリング糸に使っているワタを使ってみよう」と提案した。林は、紡績方法を見直した。

 それから1週間後。ダイワボウの本社に、和歌山工場の林が試作した糸が届いた。後に「エアコンパクト」商標で商品化されたそれは、それまでの空紡糸とは別種のものだった。

500キロから受注します/新内外綿の小ロット体制

 特殊糸の多品種小ロット生産で名を馳せている紡績会社の一つ、新内外綿。同社が紡績を委託している子会社、ナイガイテキスタイル(岐阜県養老郡)が、その機能を一段と強化、工場内の全紡績設備を500キロの小ロット生産を前提に稼働させる体制を敷いた。

 同工場は、21台の粗紡機を基準に紡績設備を分け、21種の糸を同時に生産する体制を敷いている。ただし、500キロからの小ロット生産に活用していたのはそのうちの4割だった。しかし今年1月からは、全コースで500キロからの生産に応じている。

 普通であれば、小ロット生産が増えれば増えるほど、作業効率が悪化し、コストが上昇する。同社は、その作業効率の悪化を抑えるために、作業員の多能工化を進めた。更に、「次の切り替えに備えてどのスライバーを何本用意しておけばいいか」などの切り替え段取りに関する情報を、コンピュータ端末を通じて個々の作業員が随時入手できる仕組みも構築した。

 コンピュータを活用したこの仕組みを使えば、納期を即答することも可能だ。過去の試作品についての膨大なデーターもコンピューターに蓄積し、顧客が望む風合いを表現するための原料、撚数、混率、番手などの情報を即座に提供することも可能にした。このような一連の仕組みを同社は、「はやいや~ん」と呼ぶ。

バナナの茎が糸になった/日清紡

 バナナは、一本の茎に一回しかならない。実がなった茎は伐採される。その茎から繊維質を取り出し、糸にしようとした技術者たちがいた。

 愛知県岡崎市にある日清紡の商品開発センター。ここに、紡織から加工までの一連の開発設備がある。人員は、所長の丹羽由樹を含め30人。バナナ繊維に挑んだのは同センターの面々だ。

 世界初の試みである。紡績可能なワタ状に開繊する段階でまず壁に遭遇した。繊維質の安定供給先をどう確保するか、それを開繊する技術をどう確立するかなどの課題を一つ一つ解決する必要があった。紡績、織布、加工の各段階でも、予期せぬ課題に直面した。そのままではスライバー(繊維束)を形成しない。どうにかこうにか糸にしても、毛羽が多すぎて織れない。織り上げても、糸から突き出た硬い繊維を除去しないと衣料素材としては使えない。開発センターは、このような様々な課題を4、5年かけて一つ一つ乗り越え、バナナの茎を、衣料素材として使える生地に変身させた。

乞うご期待/シキボウ・素材開発課始動

 「糸で、テキスタイルでということではなく、総合的な差別化が必要になっている。こだわりを認知してもらうには、管轄を乗り越えた、横串的、総合的な素材開発が必要だ」。シキボウの取締役繊維部門担当、中田昌信のそんな思いを受けて昨年12月、同社商品開発部に、素材開発課という新しい課が誕生した。

 初代課長の久山譲は、富山工場(富山県上新川郡)や、子会社のシキボウ高知の協力を得て、新たな糸を3、4種開発した。「毛羽を思いっきり増やすことを考えたり、撚りを極端に甘くしたり」と、これまでにない発想で開発した。狙いは、「婦人の高級ヤング・カジュアル」。来年秋冬向け素材として発表すべく、試編み、試加工を重ねている。

 素材開発課を新設したことが示すように、同社は今、糸段階からの差別化に力を注いでいる。試紡件数は、昨年度年間で70件だったが、今年度は4~7月だけで70件を超えた。半年か3カ月に1回だった素材開発会議の開催頻度も、最低でも月1回に増えた。今年7月にはそれを、富山工場で開いた。本社からは、各事業部門の営業員を含む総勢16人が参加した。

営業員の力、工場の力/クラボウ

 97年10月。クラボウは、中空純綿糸「スピンエアー」を発表した。原料・原糸課の北畠篤は、発表後直ぐ、その輸出市場の開拓にも取り組んだ。

 今年2月。同課員が、1週間をかけてニューヨークの見込み顧客を訪問した。効果はてきめんだった。既に、新規顧客の1社へ「かなりの量」を輸出した。これ以外にも数社が、採用を打診してきているという。「スピンエアー」の米国市場への投入量は、この2年間の累計で500コリ。その規模が今後、一気に拡大する。

 「スピンエー」の市場が海外へ広がったのは、原料・原糸課員の努力のたまものだ。しかし、彼らの努力をほとんど必要とせずに売れた糸もあった。

 「中空の無撚糸があると聞いた」との問い合わせが盛んにあるとの課員の報告に、北畠は少しとまどった。丸亀工場(香川県丸亀市)で商品化を進めてはいたが、発売はまだだったからだ。もちろん、パンフレットの用意もまだ。

 丸亀工場は、今治産地のタオル製造業者に依頼してその糸で見本用タオルを作ってもらっていた。この段階で、同糸の新規性が口コミで広がった。「普通は、営業員が売り込みに行ってはじめて商売が始まるが、この時は、問い合わせを追いかける形で営業員が動いた」と北畠は苦笑する。

 「ツイストフリー」の商標で発売されたこの糸の価格は、普通のカード20単糸の5倍以上だ。しかし月間出荷量は、発売するやいなや30~50コリに達した。発売から1年を経た今も、この糸のパンフレットは無い。