世界最強工場へ ~東レTSD30年の歩みと未来への挑戦(中)
2024年10月17日 (木曜日)
地の利と人材現地化
TSDが成功した要因の一つは、1990年代半ばに南通にいち早く進出したことだ。当時、外資系企業の進出先と言えば、上海や隣接する江蘇省昆山と蘇州が相場だった。上海から北西へ約100㌔離れた南通は、今でこそ真新しい高層マンションや商業施設が立ち並ぶ江蘇省を代表する都市だが、当時は何もない地域だった。
TSDが工場を置く工業団地の周辺には、鉄道の駅がない。高速道路の整備も進んでおらず、長江をまたぎ南通と江蘇省常熟を結ぶ橋もまだなかった。上海から訪れる際は、車で常熟まで行き、車ごとフェリーに乗って南通に渡る必要があった。
2002年から上海に駐在し、東麗合成繊維〈南通〉(TFNL)の営業を担当した東麗〈中国〉投資の三木憲一郎董事長は、「(フェリーで)食用豚と一緒になることもあった。ぎゃーぎゃーという鳴き声が忘れられない」と振り返る。
そんな場所であったからこそ、進出してきた外資系大手メーカーに地元の優秀な人材が集まった。TSDには現在、95年に入社した“第1期生”が10人残り、幹部として活躍している。その代表が、17年末にナショナルスタッフとして初めて同社総経理に就任した秦兆瓊氏だ。
秦氏は87年、南通大学の染色加工専門学部を卒業すると、地元の国有繊維大手企業、大生グループに入社した。27歳で工場長に抜擢され、将来を有望視されていたが、「日本企業の管理手法や企業文化を学びたい」と、95年にTSDに転じた。
入社後は苦労した。「特に03年までは赤字続きで、危機的状況だった」。日々暗中模索し、工場の品質改善に取り組んだ。
ターニングポイントは04年、当時の岡本秀宏総経理の下で一気に進めた人材現地化だった。秦氏も同年、工場長に就く。3年後の07年、念願の単年度黒字化を果たした。
08年にリーマンショックが発生し、中国経済も大きな打撃を受けたが、前述のとおり、同年開催された北京五輪の影響で地場スポーツブランドが急成長。そうしたブランド向けの内販ビジネスを拡大し、同社は成長軌道に乗った。(上海支局)