繊維街道 立志編/伴染工 専務 伴 昌宗 氏(中)/一人の繊維人として考え抜く

2022年07月20日 (水曜日)

  中国・上海へ留学した伴。当時(2004年)の上海は目覚ましい経済発展を遂げていた。

 高層ビルが次々と建てられる一方で、古い建物も数多くありました。貧しくても人々は前向きでハングリーさを肌で感じることができました。当時の世界で高度経済成長を目の当たりにできたのは中国しかなかったと思います。

 勝手に伴染工の名刺を作って、「インターテキスタイル上海」を見に行ったこともあります。ビジネス関係者しか入場できないため本当はいけないことですが(笑)。活況に沸く中国から刺激を受け、学校生活も含めてとても良い経験になりました。

  帰国後は就職活動にいそしんだ。繊維商社のインターンシップを経験し、商社マンになりたいという思いを強くしていった。

 自分のバックボーンは染工場なので、モノ作りに興味がありました。それが実現できるのは商社しかないと考え繊維商社に応募しましたが、ことごとく落ちました。面接では日本でのモノ作りの必要性や重要性を訴えていましたが、当時の商社はむしろ海外へ生産の場を求めており、時代に逆行することを言っていました。そうした中で旭化成商事(現・旭化成アドバンス)には、この思いを分かってもらい内定を得ることができました。

  最初に配属されたのはスポーツ関連の部署。その後はユニフォームの部署など主に合繊畑を歩んだ。

 生地の企画生産から製品OEMまで幅広く経験しました。1、2年目はうまくいかないことが多く、取引が停止してしまうようなミスもしました。しかし、3年目ごろには自分のやり方を身に付け、ある大手スポーツ用品メーカーの担当を任されるようになりました。著名な五輪選手やサッカー選手が着用するユニフォームに自分が手掛けた生地が採用された時は本当にうれしかった。

 今振り返ると社内外を含めて周りの人たちに恵まれていました。いろいろと迷惑を掛けたこともありましたが、業務で関わることがなくなった今でも多くの人に声を掛けて頂き本当に感謝しています。繊維という大きな視点で見た時に合繊業界の川上から川下まで幅広く知ることができたのは今の仕事にも生きていると感じます。

  公私ともに充実した生活を送る一方で、父親は倒れた後遺症で半身不随となり、がんも進行していた。

 病院へ見舞いに行くと父から「家業を継ぐのか」と聞かれるようになりました。その時から父は自分の死期が近いことを悟っていたのかもしれません。しかし、私はいつも、明確な返答をしませんでした。うそでも継ぐと言っていれば父も喜んだのかもしれませんが結局、私の返事を聞くことなく父は亡くなりました。17年2月でした。

 商社の仕事には、日々目標があり、やりがいも感じていました。そして、何よりサラリーマンとしての安定がありました。しかし、一人の繊維人として考えた時、商社マンの代えは利くけど、減少していく町工場を守る使命を背負うことの方が自分の存在意義があると感じ、実家に帰ることを心に決めました。