日中に架ける橋 我的繊維人生(3)/上海井上プリーツ 董事長 井上 勝博 氏/内販から成長も日本本社が倒産

2022年06月16日 (木曜日)

 そのカーテンの仕事は、1年ほどしてなくなった。「蘇州(江蘇省)に日系のカーテン工場ができて、仕事を取られてしまった」からだ。

 そこで日本から型紙のアーカイブを取り寄せ、アパレルのハンドプリーツ加工にシフトする。しかし、うまくいかない。「生地に加工を施した半製品を日本に戻し、縫製するスキームでしたが、半製品としての品質がなかなか上がらず、日本本社の営業から見放されました」

 そのため、技術力のアップに取り組みながら、現地での営業を強化していった。2003年に生地の国際展示会「インターテキスタイル上海」に初出展する。「当時の会場はまだ浦東新区の龍陽路にある展示館でした。中国企業として、ローカル館に出ました」

 ところが、加工料は現地メーカーの2、3倍で、来場者からまったく相手にされない。04年も出展するが結果は同じ。諦めかけていた時に、「なんでローカル館に出ているの。外資企業でしょう」と業界関係者から指摘される。

 そこで、05年から海外企業が出展する国際館のジャパンパビリオンの隣に出展する。すると「来場者の反応が激変しました。引く手あまたとなり、(展示会後)内販の仕事が一気に増えました」。

 現在の売り上げ比率は中国内販7、日本向け3だが、当時はほとんどを内販が占めた。「品質志向の現地の高級ブランドからの仕事が大部分でした」

 内販が増える中で、品質も次第に向上していく。「私はあの頃、年に2、3回出張で上海に来る程度でした。当時の営業本部長や技術者が駐在し、頑張ってくれたおかげです」と振り返る。

 品質向上に伴い、日本向けの仕事も増えていく。08年頃には、内販と日本向けの比率はほぼ半々になった。

 順風満帆に見えた上海工場だったが、好事魔多し。12年に日本本社が倒産する。(上海支局)