創刊70周年記念特集(4)/OBからのエール/アパレル輸出に希望の光「開発」通じて再生を

2020年04月27日 (月曜日)

〈元伊藤忠商事副会長 加藤 誠 氏/創意工夫が成長もたらす〉

  ――本紙は創刊70周年を迎えました。

 おめでとうございます。素材、産地、ジーンズ・ユニフォームなど製品、いわゆる川上から川中周辺の繊維産業情報発信に徹して継続されてこられた努力に敬意を表します。50年以上の愛読者です。日本経済の基礎作りに貢献をしてきた繊維産業で、担当してきた毛織物、それに続く合繊厚地織物についてお話しできれば。

  ――入社は東京五輪が開かれた1964年。配属は輸出毛製品課でした。

 配属希望先に「ウール」と書いたところ、当時課長の堀田さん(輝雄氏=後に繊維分掌役員、副会長)が「プラントなどを志望するやつが多い中で、いまどき珍しい」と採ってくれた。豪州へ行きたくて、豪州ならウールだろうと。毛糸や毛織物を輸出する課でした。

  ――69年にはニューヨークへ。

 毛織物販売を担当しました。当時、英国毛織物は下火で、イタリア品がピラミッドの頂点。日本品は中級品の位置付けで、バーリントンなど米国産品と真っ向からの競争。大手紡績品と並行して尾州産地品も取り扱った。機屋に糸を貸して織物を買い上げる。糸の持ちかかりを計算し、ルーペで打ち込み本数を数え、染屋と染め賃の交渉などを任されました。

  ――毛織物輸出も衰退します。

 輸出がピークだったのは沖縄返還に伴う日米繊維協定が締結された72年ごろ。それまでは米国毛織物メーカーによるダンピング提訴などで目の敵にされていた。輸入関税も40%以上で、それを乗り越えて競争するのは至難の業でした。

 この年前後から伸びる織物として加工糸織物が本格的に登場し紳士服、パンツ素材として輸出厚地織物の主役になっていきます。毛織物販売は代理店を使っての縫製メーカー(カッター)への直売りで、この販売ルートがニット、厚地織物にも生かされた。

  ――日本の合繊織物が売れた背景は?

 伸び盛りの合繊メーカーの糸開発、撚糸、織(高速ジェット織機等)、加工、とりわけ機屋さんの技術力の進化もあり、合繊織物が紳士服地素材としての地位を確たるものにしていった。「ポリエステルなんて硬くて着られない」など当初は散々。しかし、メーカーと産地の意欲がすさまじく次々と問題を解決していった。あの時代を思うと胸が熱くなる。

 85年プラザ合意前後から繊維の外貨獲得の地位は下がっていった。国内婦人向け素材で“新合繊”がブームになり、中東向け民族衣装素材として輸出の継続はありましたが、米国への直接輸出は特殊不織布などに限られていきました。

  ――ニューヨークに2度駐在された。

 2度目の後半はスポーツ素材向けに日本の合繊織物の存在意義を見つけ、コーティング、特殊ナイロン、高密度織物などの販売に明け暮れた。全米のスポーツメーカーに販売したが、ユニフォームと並びアクティブスポーツが合繊織物の一大市場へと成長することになる。

 余談ですが、アクティブスポーツに関しては米国が世界をリードし有名ブランドは山ほどあった。その持ち主とも懇意にしていたが、“ブランド”という宝の山には気づかず生地販売だけしか頭になかった。後にブランドマーケティング部門に異動した時、岡藤君(正広氏=現会長CEO)に接して初めてブランドの価値を知り、目からウロコでした(苦笑)。

  ――繊維・アパレル産業が苦戦しています。

 温暖化防止、海洋汚染阻止などわれわれが住んでいる地球を守ろうとする動きが強まっています。石油由来の化学製品であれば、消滅・再生についても化学の力でできるのではないか。合繊・化学メーカーが一致協力し国の支援も受けて取り組めば回収システム、回収費用も併せ最善の解決方式が見いだせると期待したい。

 アパレル産業の衰退は悲しい。衣食住は人間が存在する限りなくならない。消費者に商品の魅力をいかに訴え、届けるか。現場主義に徹し、意欲と情熱をもって新型コロナウイルス禍を乗り越えて、新しいアパレル産業を築いていただきたい。アパレル産業こそが繊維産業の消費者への最終表現と確信するからです。

略歴

 かとう・まこと 1964年伊藤忠商事入社。2000年繊維カンパニープレジデント。01年副社長。04年社長補佐、営業分掌。06年副会長。07年相談役。大阪商工会議所副会頭などを歴任。79歳。

〈元シキボウ常務 石川 茂彬 氏/まだまだ諦めてはいけない〉

 ――本紙は創刊70周年を迎えることができました。

 おめでとうございます。長きに渡り繊維産業への情報発信に尽力されてこられたことに敬意を表します。

 ――シキボウ(当時は敷島紡績)に入社されたのは、梓みちよの『こんにちは赤ちゃん』がヒットしていた1963年でした。

 入社後10年間は工場生産部門にいました。その間、29歳の時に、ケニアの紡績・糸染め・織布一貫工場に、紡績担当として行っています。強烈なカルチャーショックを受けました。仕事で追い詰められたこともありましたが、それを乗り越えることもできた。いろいろな経験をさせてもらいました。

 ――印象に残る業界の出来事を。

 70年代から80年代までの20年間、つまりバブル前はアパレル全盛期で、大手アパレルが大きな力を持っていました。しかし、バブル崩壊後の90年代後半から状況が変わり始める。ユニクロの原宿店がオープンし、フリースブームが到来した98年以降、変化が加速しました。

 一方、比較的安定していたシャツ業界では、アパレルの間で破綻が相次ぎ始めます。この背景には、ダイエー、マイカルなどの破綻がありました。生地問屋の大半も破綻に追い込まれました。

  ――シキボウについて振り返ると。

 83年に寝装製品課長になりました。当時は、シキボウの営業部門の中で最もボロボロの課で、赤字続きでした。1年で勝負を付けないとだめだと思いました。そうでないと、放り出されるだろうなと。技術屋が営業に来て、どの程度の事ができるのかお手並み拝見という空気が漂う中で、歯を食いしばってがんばりました。すると、業績が上がって2年後には、ラッキーにも「業績評価」を受けることができました。営業で何とかやっていけそうだという大きな自信になりました。

 ――97年に、インドネシアの紡織加工子会社、メルテックスに社長として赴任しました。

 シキボウと野村貿易さん主導で、メルテックに編み地の加工場を設けました。メルテックスは、インドネシアのパートナー4人と野村貿易さん、そしてシキボウの合弁で1972年に設立した会社です。当時は、その現地パートナーの実権が、それぞれの息子さんに移っていました。彼らが、日本側が勝手に新事業を進めたことに反発し、収拾がつかない状態になっていました。で、当時社長だった坂本(尚弘)さんに、「すまんがインドネシアに行ってくれ」と言われた。56歳の時です。現地に行くと、いろいろな人がいて危険だと感じることもありましたが、もつれた糸を解きほぐすことに努めました。ただ、編み地の加工は結果的にうまくいかず、やめることになり、ローカルパートナーからの要望で彼らの株もシキボウが買い取りました。

 ――日本紡績協会会員会社の運転可能精紡機は、74年の981万錘弱をピークに減少し、今では30万錘弱になっています。

 シキボウでも縮小が続きました。嫌な事、嫌われる事をいっぱいやってきたように思います。シキボウの繊維事業本部長だった時に、主に染色を行っていた江南工場(愛知県江南市)を、シキボウ江南として分社し、従業員の皆さんにも構造改革に協力いただきました。紡績の高知工場も閉鎖しました。これは非常につらかった。閉めた時にお別れ会のようなものをやりました。常務だった私がその会で経緯を説明したのですが、泣き出す女子社員もいたりして……。あんな思いはもうしたくないですね。

 ――日本の繊維産業はかつて以上に厳しい環境下にあります。

 企画、生産、販売などの機能をグローバルに分担させる国際分業ネットワークの構築で生き残っている企業があります。アパレル製品の輸出が737万点と小規模ながらも前年比2割増となっており、日本の品質やデザインなどが評価されつつあります。これも希望の光です。厳しい状況下の素材についても、非衣料分野は持ちこたえています。まだまだ諦めてはいけません。

略歴

 いしかわ・しげあき 1963年シキボウ(当時は敷島紡績)入社、92年取締役、98年常務取締役繊維事業本部長、2002年新内外綿代表取締役社長、06年新内外綿代表取締役会長。79歳。