繊維街道 私の道中記/明石スクールユニフォームカンパニー 社長 河合 秀文 氏(1)/満員電車が嫌だった

2018年04月09日 (月曜日)

 今年、岡山県倉敷市の児島地区で学生服の製造が始まって100年になる。その歴史の一端を担ってきた明石スクールユニフォームカンパニー(明石SUC、倉敷市)は、高度経済成長が終わり、学生服に対する認識が大きく変わっていく中でも、大手の一角として成長を続けてきた。創業から6代目となる河合秀文社長は、そんな激動する業界をどう見詰めてきたか。

 私が生まれたのは、現在の本社の向かいにある「制服工房くらしき」がある当たりで、昔はそこが自宅でした。小学校1年生の時に、現在も社内の宿泊施設「迎賓閣」として利用している家屋に引っ越し、そこで高校2年生まで過ごしました。やはり、この家で過ごした思い出が一番心に残っています。

 友達と遊ばない時は工場が遊び場でした。裁断場でいろいろなパーツに切り分けるところをじっと見ていたり、製品倉庫の中にもぐりこんでみたり、今でも工場のいろいろな情景が目に浮かんできます。

 河合は先代の正照社長の長男として生まれたが、姉が3人いる末っ子長男だった。河合家は明石家から養子に入った2代目社長の稔(祖父)から続く明石被服興業(明石SUCの前身)の同族の家系ではあるものの、幼少時より会社に入らなくてはいけないと言われたことが一度もなかった。しかし、東京の一橋大学に進学し、東京で暮らすうちに次第に家に戻ろうという気持ちが芽生え始めた。

 将来は建築か工学部に行きたいと思っていました。ところが高校では理系が苦手だったものですから、文系に変わり、大学も社会学部に入学しました。卒業後、再度商学部に編入しましたので、東京には6年間いたことになります。

 都内から郊外へ通学していたので、電車の混雑はまだましでしたが、サラリーマンになって都心へ通うようになれば、満員電車に乗らなければいけない。そう考えると嫌で、自分は都会のサラリーマンには向いていないと思いました。

 学生服業界は1964年の東京五輪後の不景気や、生産過剰による乱売・景品競争などにより、混乱していた。明石被服興業も69年には売上高が30億円程度だった時に、8億円もの大型投資で宇部工場(山口県宇部市)を立ち上げ、それが重荷になっていた。73年には石油危機もあり、売上高が激減、会社設立後初めての赤字に陥った。社長交代や商社からの金融支援を得て、何とか危機を乗り切った。その混乱の余韻が冷めやらぬ、82年に河合は入社した。

 父(正照)は口に出してこそ言いませんでしたが、私が戻ってくることはうれしかったのではないでしょうか。会社は新体制となり、ムードも変わりつつあった時期でしたから。 (文中敬称略)